兼六園の日本武尊像

 兼六園にひときわ高く聳える日本武尊(やまとたけるのみこと)像。高校時代に、夜、独りで雪の中に立つこの像を仰ぎ見て、その神々しい凄さに息を飲んだことが忘れられない。この銅像が、靖国神社の大村益次郎像や上野公園の西郷隆盛像に先立つ我が国最初の屋外人物銅像であることや、この像には鳥が敬遠するという謎があることは、その謎解きとともに、今や観光案内書等で広く知られている。謎解きしたのは、「ハトに嫌われた銅像の科学的考察」と題する論文によって2003年イグノーベル賞を受けられた廣瀬幸雄先生だ。先生は、金大名誉教授で、金沢学院大学教授も務められ、珈琲博士としても知られている。先生の論文題名は「ハトに嫌われた」となっているが、糞害をもたらす鳩は銅像に近づかない方が良いだろうし、気持ちとしては、鳥も像の気高さに遠慮して近寄らないと思いたい。しかし、実は、このお像を製作した富山県高岡の鋳物職人が、銅の融点を下げるために入れる砒素と鉛の量を多くしたためである。鳥が近づかないのは、砒素の化学的毒性を感知してというより、素材の中の鉛と砒素が出す電磁波を嫌うためと広瀨先生は説明されている。銅像の素材に多くの砒素を入れるのは、作業安全の上から万全の注意が必要だが、立派な銅像造りに心血を注ぐ鋳物師の方々の苦心と意気込みが偲ばれる。

 高岡が鋳物の町になったのは、高岡を開町した人でもある前田家二代目前田利長公のお蔭である。公は、河内丹南から越前、加賀を経て鋳物技術を高岡の地に導入され、鋳物は高岡の重要な産業となった。鋳造は、銅像のみならず、梵鐘や美術工芸品、茶釜や銅鑼などの茶道具、農機具、ナベ、カマ等の日用製品で我々の生活に直結している。

 鋳造は危険な仕事である。特に、金属を溶かすのに空気を送りこむため夜を徹して長時間タタラを踏み続けるのは、厳しい重労働である。そんな高岡鋳物師の労働を支えたのが、民謡の弥栄節(やがえふ)である。「やがえぶし」とも呼ばれるが、「やがえふ」が伝統的な呼び名のようだ。この弥栄節を唄いながら調子を合わせてタタラを踏むと鋳造作業が進む。弥栄節には踊りもついていて、学校でも演じられるが、利長公の命日6月20日前後の御印祭(ごいんまつり)では、鋳物の街金屋町の石畳を踊り歩く。背中に前田家の梅鉢紋を染め抜いた揃いの法被で、豆絞りに梅鉢紋入りの鉢巻を締めた男衆が棒を持って踊る。そのフリはタタラ踏みの動きを舞踊化している。女衆は手拭いを操って踊る。この曲は、朝倉書店の日本民謡事典では、富山県の代表的民謡に入っている。

 高岡生まれの妻の親友の一人は、古代に百済から招聘されて河内に住み、高岡に移ってきた鋳物指導者の子孫。そのため鋳物と弥栄節に強い関心を持つ妻の話を聞いて驚いた。戦前、弥栄節を保存する動きが大きく盛り上がったものの、戦争で中断し、戦後、妻の父宇於崎健二が、弥栄節復元の活動に協力して、自らも唄い、NHKの全国放送「民謡檜舞台」に出演したというのだ。その古い唄は、後年、ビクターが民謡歌手鈴木正夫の唄でレコード化する際、親しみやすいように編曲され、「エンヤッシャ・ヤッシャ(イ)」以外の合いの手も加えて今の唄になったようだ。今の唄はパソコンからすぐアクセスできるが、その元唄ともいえる古い唄をネットで探ると、国立国会図書館のデジタル・アーカイブに保存されていた。それを聴いた妻と妻の妹は、父の声だと驚き感激した。元唄は今の唄より素朴でありながら、節回しが難しい。私は、今の唄のさらなる広がりを願うものだが、元唄もまた大切にしたい。それにつけても、江戸初期前田家の起業家精神が、唄になって富山県呉西の地に息づいているのはとても嬉しい。(2021年4月17日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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