令和の勧進帳

 いよいよ令和の時代となった。さらに明るく、前向きに過ごしていきたい。この11日、石川県人会や、関東大小松会、目黒石川県人会の多くの方々には、お旅祭りと子供歌舞伎をご覧になるため、小松までお運び頂いた。深く感謝したい。

 これに先立つ10連休中に「全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」改め「日本こども歌舞伎まつりin小松」が開かれ、市内の子供達が恒例の「勧進帳」を演じたが、令和最初のこの月に、東京の歌舞伎座では、團菊祭の舞台で、市川海老蔵丈が弁慶を演じて大歌舞伎の「勧進帳」が上演されている。この石川県を舞台にした芝居に、多くの方々が一層関心を深められることを期待したい。なお、私は、北國新聞社から「勧進帳への旅」という時鐘舎新書の一冊を5月1日付けで上梓した。

 さて、本稿では、「勧進帳」の舞台に関して、一般的な認識とは若干違った受け止め方を紹介しつつ、それに対するコメントをも併記したい。それは、次の3点である。

1.安宅の関で、義経は山伏に身をやつしていたのではない。

2.弁慶は、勧進帳と称して白紙の巻物を読んだのではない。

3.弁慶が義経を打擲したから富樫が一行の通行を許したのではない。

1については、舞台を見れば明らかな通り、義経は、弁慶の作戦によって、花道に登場したときから既に山伏姿ではなく、荷物運びの強力(ごうりき)の姿になってしまっている。

2については、弁慶は、勧進帳だと言って笈の中から「往来の巻物一巻とりいだし」と長唄で唄われている。「往来の巻物」とは「書簡の文例集」のような巻物であり、白紙の巻物ではない。

3については、弁慶が義経を打擲したあとも、富樫は通行を許さないと宣言している。その後、山伏側と関所側の激しい詰め寄りがあり、弁慶が「そのように言うのなら、この強力をここに預けて行きましょうか、あるい直ちに打ち殺してみせましょうか」と発言して初めて富樫が通行許可を宣言するのである。

 しかし、従来の一般的な認識にも、それぞれ意味があるようにも思われる。

1.義経はずっと山伏姿だったのであって、安宅の関を前にして、弁慶の作戦で一時的に強力になったのであり、大きく見れば、山伏に姿を変えていたと言うこともできる。

2.弁慶の読んだのは「書簡の文例集」だったとしても、そこに書いてないことを堂々と口にしたのであり、それを分かりやすく白紙の巻物を読んだと表現しても、さしておかしくはない。

3.弁慶が義経を打擲した直後に、富樫が通行を許可しなかったとしても、打擲が富樫に大きなインパクトを与えたことは確かであり、その意味で、打擲が通行許可のキーポイントになったと解釈することもできる。

 以上、理屈をこね回しているようだが、「勧進帳」は、能「安宅」を出発点として、登場人物の心の動きまでを楽しめる総合的な舞台となっており、多様な見方が可能な一幕である。それぞれの場面にいろいろな解釈ができることをふまえつつ「勧進帳」を観劇するとさらに興味が増すと考えて、あえて端的に愚考を記した次第である。(2019年5月19日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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