平成と令和

 いよいよ平成最後の月になった。この31年の間、さまざまな出来事があった中で、平和に過ごし得たのは本当によかったと思っている。

 来月からの御代は「令和」。すばらしい元号である。これは、漢籍からではなく、わが国の古典たる万葉集を典拠としていて、歴史上初めて国書からとった元号である。具体的には、万葉集巻5において815番から846番までの短歌と「序」による「梅花の歌32首あわせて序」の中で、大伴旅人の書いた「序」の部分から来ている。

 その「序」は、中西進先生の「全訳注原文付万葉集」によれば、次の通りのものである。「天平2年正月13日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀[へんの下部はノギの代わりに糸](うすもの)に封(こ)められて、林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け、觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外(そと)に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を慮[正しくは手偏に慮](の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしえ)と今(いま)はそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。」(読み方は、同書による。)この「序」の原文は漢文であるが、32首の短歌は万葉仮名で書かれており、大宰府の次官以下の官人、豊後守、筑後守などの地域の責任者等に交じって長官たる旅人も「わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも」と詠んでいる。この32首の中には、筑前守山上憶良の詠んだ「春さればまず咲く宿の梅の花独り見つつや春日暮さむ」の一首もある。

 万葉集には、高貴な人達の歌だけでなく、防人(さきもり)や若い男女の歌もあり、多彩な人々が文芸に親しむ我が国の伝統を示す極めて大切な歌集である。私が秘書官事務取扱として仕えた大臣で歌人でもあった熊谷太三郎科学技術庁長官は「万葉集こそ我が国の宝」と言い続けておられた。

 梅は、加賀前田家の紋所であり、我が前田利祐名誉会長の御紋である。金沢市の市章は梅の輪郭に「金」の字が入っている。我が石川県人会の団章も前田家の紋所を使わせて頂いている。私の出身高校の校章も梅である。このように、梅は我が県にとって極めて御縁が深い。私の小松の昔の家には大きな紅梅があったが、太宰府天満宮の曲水の宴にお招き頂いたのを機に、今の小松宅にも小さい紅白の梅を植えている。また、このところ、年賀状には梅を詠んだ「漢詩もどき」を書き付けている。かくして、「令和」は私個人にとって、とりわけ嬉しい元号であるが、もちろん、この慶びは私ども石川県人だけのものではないのは当然である。国民全体で斉しくこの元号を慶び合い、10日余り後に迎える令和の時代がよき御代になることを祈りたいし、そのために私も微力を尽くそうと気持ちを新たにしている。(2019年4月18日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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