常陸坊海尊

 前回の「四天王」で少し触れた常陸坊海尊について述べたい。海尊は、源平時代に源義経の下で活動した僧兵で、いはば、小型の武蔵坊弁慶といった感じの人物である。源平時代の加賀と能登で、この人の名前が語られるのは、2件あると思っている。

 ひとつは、前号で述べた四天王の一人として「歌舞伎十八番勧進帳」に登場することである。その先行作にも顔を出す。「勧進帳」での海尊は、四天王の中の最長老といった趣で、義経に従うチームの主将弁慶につぐ副将格のように見え、他の若い3人が安宅の関所を踏み破るべしと花道から本舞台に出て行きそうになるのを、手を伸ばして止め、義経は強力(ごうりき)に変装して通行すべしとする弁慶の策を支持して冷静な行動をとっている。

 いまひとつは、海尊が、「九穴の貝」を食べて、不老不死となり、能登半島突端狼煙の山伏山に現れたという伝承である。海尊が山伏山に現れたのは、安宅の関を通過したその直後のことか、ずっと後なのか、よくは分からない。一体、義経伝説は、全国至る所にあり、義経の一代記のような「義経記」は、軍記物語ではあっても伝奇物語とも言われて、義経とその家来にまつわる各地の伝承を綴り合わせたようなものだから、不明なことは多い。

 九穴の貝とは、鮑(あわび)かトコブシのような貝だろうか。能登の鮑は実に美味しい。鮑は、鰓呼吸をして、排泄物や精子や卵を放出するために常にいくつかの穴が列になって開いており、古いものはふさがって新しいものができるが、開いている穴は5つか6つが標準とか。そんな穴が9つもある珍しい鮑の類を食べると不老不死になるというのは、何となく頷けるような気がする。もっとも、海尊が不老不死になったという伝説は、富士山をはじめ他の場所にもあり、別の食べ物を食したからとも伝えられる。

 義経が衣川で藤原泰衡に攻められて自刃した時、弁慶は、義経を守るため、立ったまま敵の矢を数多く体に受けても動かず、壮烈な最期を遂げて、「立往生」の言葉を後世に残したのに対して、海尊の方は近くの山寺に参拝に出かけて帰らず、そのまま行方不明になってしまったと「義経記」に記されている。大体、この人は逃げ足が速いといわれており、義経の北国下りにおける最初の難関愛発関(あらちのせき)でも、弁慶が後々も怪しまれないようにゆっくり堂々と関所の番人と応対しているのに、海尊の方は、機をみてサッサと関所を出て行ったとか。

 義経のいまはの際に居なくなり行方知れずになった海尊ではあるが、長く生きて、義経に関する伝承を広め続けた人物とされていて、名誉回復もされている。仏門出身の義経の家来のうち、弁慶は山門と称される比叡山延暦寺で修行したのに対して、海尊は寺門と言われる長等山園城寺別名三井寺の出で、義経の家来に、天台宗の二大勢力である山門出身者も寺門出身者もいることになっている。武蔵坊弁慶は、我々が史実と虚構の間を逍遙するのに、誠に格好の人物であり、芝居や物語などに頻繁に登場して、「勧進帳」では理想の英雄となっているが、海尊の方は、弁慶よりも、さらに史実から遠くに位置するようだ。逃げ足が速いこの人が長く生きたのは命を惜しんだ結果でもあろうから、私など凡人に近いものを持っているようで、こんな人を武将伝の中に見つけると、なぜかホッとするものを覚えるのである。(2018年9月19日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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