引っ越し

 3月は卒業の月。引っ越しが多い。妻も私もよく見るTBS木曜夜の番組プレバトの俳句の「春光戦」予選のお題は、「卒業」と「引っ越し」と「入学」だった。その予選で、春風亭昇吉師匠が卒業を詠んだ一句「三月の空に託せるものがない」に強く共感した。それぞれの学業を終えて覚える充足感とその反面の未達成感。人生の新たな段階に進む時に心の片隅に宿る覚束なさ。これまでの寄るべであった学校と手を伸ばしても届かない社会の有り姿との間のギャップに直面することを迫られる空しさ。そんな我々が誰しも抱く気持ちを17音で的確に表現している。

 今、私はそれに似た気持ちになっている。長年慣れ親しんだビルと別れる時が迫っているのだ。私が役員を務める本田財団の拠点本田八重洲ビルが取り壊される。このビルは東京駅八重洲口近くの八重洲ブックセンターの並びにあるが、一帯の大再開発で、新しく高層ビルが建つことになり、6年後の新ビル完成まで一時転居を余儀なくされているのだ。

 本田八重洲ビルは、本田宗一郎が東京で最初の本格的な事業拠点として1960年に建設したものだ。私が大学に入った年だ。ここの階段の魅力については、前に書いた通りだが、それ以外もこのビルは見所満載である。本田財団では、大家さんの本田技研はじめ関係者の協力を得て、建築史の専門家大阪公立大学の倉方俊輔教授にお願いし、同大学や東京大学の研究室の協力を頂いて、取り壊しに当たっての調査を行った。

 その結果、このビルが自社ビルの風格を備える中で温かく接客するため工夫を凝らし、当時の熟練した職人技を駆使したものであることが改めて確認できた。玄関奥の柔らかな螺旋階段と一階二階が吹き抜けのたっぷりした空間は、訪問者の気持ちを和らげる。階段は、手すりにくぼみがあり、親指が掛かりやすい。セメントを固めた一段一段は蹴上げが低く、下面で中央部がやや膨らんでいる形状で、現場で造り付けられたということだ。テラゾーという工法で仕上げて磨き上げられた床の模様や階段奥の彫刻ブロックは斬新だ。

 ビル完成時の八重洲口には、大丸デパートの他は背の高いビルはなかった。当時、このあたりには、いわゆる「百尺規制」がかかっていて、ビルの高さは30.3メートルに制限されていた。爾来このビルの周辺の周辺に建てられた建物の多くは、八重洲ブックセンターを含めて同じ高さに揃っている。この規制のため、9階を数える地上階はそれほど天井が高くないが、地下の一階と二階は地上階より天井が高く、地下空間が活用されている。また、このビルは、外堀通りに面していて、ビルのファサードつまり「顔」は西向きだが、建設当時は、南側に大きなビルがなかったこともあって、南面がビルの顔だったようだ。それが、周辺に同じ高さのビルが建ち、大きな「すじかい」を入れる耐震補強を含めて大改修が行われ、今の姿になった。

 新築当時は社長室がなく、本田宗一郎社長はいつも役員室で議論を交わしながら車と人間の将来を考えていたと言われる。作業衣にこだわり、叙勲を受ける際も皇居に自分の正装たる作業衣で行きたいと漏らしたほどの本田宗一郎の個性が、このビルには横溢している。交通至便の地に建つこのビルは、金沢の友人達は、北陸新幹線と直結しているようでとても訪れやすいと言っていた。オフィスビルは、街の発展につれて建て変るのが宿命だろうが、目前に迫った引っ越しの淋しさをかみしめつつ、高度成長期に丁寧にこのビルを建設した人々の精神をぜひ大切にしたいと思っている。(2023年3月16日記)

 

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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