前田家に伝わった大きい重要文化財「アエネアス物語図毛綴壁掛」は、今も世界の主流である西洋文明の源流のひとつギリシャのトロイア戦争を描いた連作の内の一枚である。その姉妹品は京都の祇園祭などで山鉾を飾っており、16世紀17世紀頃にベルギーで作られたものが、いかにして我が国に伝わったか、その謎を含めて、かつてNHKでも大きく取り上げられた。来年4月から東京国立博物館で開催予定の前田育德会創立100周年展覧会でも話題を呼ぶことになろう。この壁掛について、本欄で二度にわたって紹介したが、最新の調査研究によってその一部を訂正する必要が生じたので、ここに記述したい。多くの神様や人間の名前が出てくる煩わしさは、どうかお許し頂きたい。
古代ギリシャの「トロイア戦争」の発端は、神々の女王ヘラ、知の女神アテネ、美の女神アプロディーテが美を競ったことにある。神々の王ゼウスは判定せず、牧童となっているトロイア王子パリスにその審判を委ねた。パリスは世界一の美女を褒美に与えると約束したアプロディーテを選んだ結果、ギリシャのスパルタ王の妻ヘレンを与えられ、ヘレンはパリスとともにトロイアに行ったため、ギリシャ側は大激怒。スパルタ王の兄のミュケナイ王アガメムノンが総大将となり、アキレス腱に名を残す英雄アキレウス達も加わってトロイアに遠征した。トロイア側もパリスの兄ヘクトール達が奮戦して、戦いは長く続いたが、ギリシャ側の知将オデュッセウスの作戦とスパイ役シノンの働きにより、「トロイの木馬戦術」でトロイアは陥落。トロイアの王族アエネアス達は辛うじて脱出する。彼は放浪の航海の途上、カルタゴ女王ディドーと逢って愛され、引き留められるが、それを振り切ってイタリアに向い、その子孫はローマを建国する。ここで、トロイア陥落とオデュッセウスの帰国までが、著名な詩人ホメロス達によって叙述された物語群の内容であり、アエネアスの物語は、時代が下ったヴェルギリウスの叙事詩で記述されている。
このトロイア戦争の各場面を一連の大きな壁掛に仕立てた作品が、我が国に持ち込まれて今に伝わり、それらは、①前田育德会の所蔵品(アエネアスとディドー、又はパリスとヘレンの出会いの場面)②芝増上寺にあった焼失品(アキレウスに敗れて死んだヘクトールの遺骸をトロイア王が貰いに行く場面)③京都祇園祭鯉山の懸装品(トロイア王と王妃が祈りを捧げる場面)④京都祇園祭鶏鉾、霰天神山、長浜曳山祭の鳳凰山の懸装品(ヘクトールが戦闘に赴くため妻子と別れる場面)⑤京都祇園祭の白楽天山、大津祭の月宮殿山と龍門滝山の懸装品(トロイア陥落の場面)であると前に本欄で申し上げた。なお、③は一枚が9分割されて全て鯉山で用いられ、④と⑤は分割されて別の山鉾で使われている。②は焼失し、①のみが原型を保っている。
この連作について、京都の鯉山で、長年丹念な調査が行われて、昨年7月に「鯉山冊子タペストリー編」として刊行された。ここでは、産地ベルギーの専門家とのやりとりを含んで、各場面の意味や現在に至る経緯が丹念に調査されている。これまで本欄で紹介した内容を訂正するのは、その結果によるものである。
まず、芝増上寺で焼失したのは、1枚ではなくて2枚であった。また、この連作と同じ下絵による作品がかなり欧州に残っていて、それと比較対照することによって、各場面の意味が更にはっきりしてきた。
その結果、連作の各場面の時代順は次の通りとなった。Ⅰ.①[前田育德会所蔵品]パリスとヘレンの出会い。Ⅱ.②の1[増上寺焼失品の一枚]トロイア王と将軍達。Ⅲ.④[鶏鉾等の懸装品]ヘクトールの妻子との別れ。Ⅳ.③[鯉山の懸装品]トロイア王と王妃の祈り。Ⅴ.②の2[増上寺焼失品の一枚]トロイア王とシノン。Ⅵ.⑤[白楽天山等の懸装品]トロイア陥落。
さらに同一の下絵から作られて欧州に現存する他の作品との比較で、⑤は横長の広い壁掛であるとされた。分割されて懸装品となっているもの以外に、大きい中央部があり、そこにはトロイの木馬も描かれていたが、今は行方知れずとなっている。
また、前田育德会所蔵のものが、パリスとヘレンか、名前どおりにアエネアスとディドーかという議論に関しては、両論紹介の上、欧州にある壁掛との関係や、同じ下絵から何枚かの壁掛が作られたことなどを踏まえつつ、一連の壁掛はホメロス達が著述したトロイア戦争そのものの場面であり、この一枚のみが、ホメロスの時代から700年も後のヴェルギリウスの叙事詩で語られるアエネアスとディドーの出会いの図とするのはやや奇異なので、これは、下絵には「アエネアス・ディドーの出会い」を用いながらも、ここでは「パリスとへレン」と位置づけるのが妥当とされた。
このように前田育德会所蔵の壁掛は、トロイア戦争の発端とローマ建国に繋がる後日譚の両方の場面に関わり合いがあることが興味深い。また、鯉山の長く深い調査と研究には深甚なる敬意を表するものである。前田育德会としては、これを踏まえてさらに考察を進めたいと思っている。(2025年2月20日記)
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