別れと出会い

 先月は、石川県にとって、大きな政治選択の月であった。3月8日、石川県知事選挙と金沢市長選挙、そして金沢市会議員補欠選挙が施行され、知事には山野之義氏、金沢市長には村山卓氏が当選された。当選された方々には、職務に邁進されて、石川県や金沢市の発展に全力を尽くして頂きたいとお願いし、惜しくも当選に達しなかった馳浩氏達には、その健闘を讃え、さらに石川県・金沢市のために力を尽くして頂くことを期待したい。

 3月は卒業の月である。最近は、大学院などで、秋入学秋卒業の仕組みも取り入れられてきているが、我が国の学校全体としては、ほぼ4月入学、3月卒業で学年歴ができあがっている。

 卒業では、ともに学んできた学生生徒が離ればなれになることが一般である。もちろん同じ学校を卒業して同じ学校に進学する学生達や、同じ学校を卒業して、同じ職場に就職する方々もあろう。しかし、ほとんどの卒業生にとって3月は別れの月となる。別れは、人々との別れだけではなく、長年慣れ親しんだ建物との別れでもある。特に学校では、校舎、教室との別れは、感ずるところが大きい。「蛍の光」で、「いつしか年もスギの戸を開けてぞ今朝は別れ行く」と歌われているとおりだ。公立小松大学設立の際、理事長として立命館大学を牽引されてきた川本八郎先輩から、学校経営には、学舎の重要さを忘れてはならないと教えていただいたのが忘れられない。

 さて、別れと言えば「さよならだけが人生だ」という言葉が私の心に強く響く。これは井伏鱒二による中国唐の詩人于武陵の「勧酒(酒をすすむ)」の詩の訳詩からきている。元の于武陵の詩は次のとおりだ。「勧酒 勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」読み下せば「君に勧む金屈巵(金色の盃)を 満酌(まんしゃく)辞するを須(もち)いず 花発(ひら)いて風雨多し 人生別離足(た)る」となろうか。解釈すれば「あなたに金色の盃をささげる。さあなみなみとつがれたこの酒を遠慮なく飲んでほしい。花が咲けばそれを雨風が吹き散らすように人生はいろいろだ。この人生には常に別れがつきものだから。」というようなことだろう。この詩は、起句、承句と結句の3句で上平声四支韻を踏んでいる。一般に五言絶句では承句と結句で韻を踏むが、起句にも踏むことがある。

 この唐詩を井伏鱒二は次のような訳詩にした。「コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」。この結句の訳が人口に膾炙している。

 私は、酒はあまりいけるクチではないから、飲酒の気分にはいささか理解を越えたところもあるが、想像することはできる。私の独断と偏見に基づいた解釈では、原詩には、これで会うことがない一度きりの別れというよりも、一般論として花と雨風に人生の紆余曲折を見て、別れの感慨を詠んでいるのに対して、訳詩のほうは、「ハナニアラシ」となっていて、我が国で開花時期の短い桜の花が雨や風ですぐ散ってしまうというイメージが具体化されている。さらに訳詩は「七五、七七、七七、七五」と、我々にとって心地良い我が国古来の七五調のリズムに乗っている。このリズム感が、起句にまで韻を踏んで押韻を強調した原詩の趣を日本語でよく伝えているように感じ、前の3句を受けて最後の「七五」がドスンと胸に響く。そして、それまでの人生を十分に生きた人こそが、「さよならだけが人生だ」と万感の思いにひたることができるのだと思う。

 私の年になれば、いずれ、「人間を辞める日」が来て、地球というこの星から永遠に別れを告げる瞬間が迫ってきている。私もそんなことを強く意識しつつも、まだまだそれを淡々と受け入れる心境にはなれない。しかし、この3月末で、私は、学長の山本博先生と同時に公立小松大学理事長の職を降りた。長く親しんだ教職員や若い学生達と別れるのは淋しいが、やはり「さよならだけが人生」である。

 言うまでもなく、実際には「さよならだけが人生」であるはずはない。人生には、多くの出会いがあり、自分以外の人との長い生活空間の共有時間がある。出会いは、人々に大きな機会を与え、飛躍展開のキッカケとなる。自分以外の人とともに生活し、仕事をし、喜怒哀楽をともにする時間を長く過ごして、我々は生きていく。特に4月には、多くの新しい出会いがある。学校の入学式や職場の入社、入団の式典が続く。若い方々には新たな出会いを機会に、「であい」と「さよなら」の人生を力強く生きて、大きく飛躍して欲しいと念ずることしきりである。(2026年4月18日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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