前田育徳会所蔵の重要文化財「アエネアス物語図毛綴壁掛」は、今年開催した「『百万石!加賀前田家』特別展」で、多くの方に御覧頂いた。本欄でも、これまで、①2020年7月「祇園祭と前田育徳会の壁掛」、②2022年9月「壁掛の人物」、そして③2025年2月「壁掛の順番」と三回にわたって取り上げた。しかし、ここにきて、従来の説明と大きく異なる新説が提示されたので、今回はそれを報告したい。
前田家特別展が終わった後のある日、前田育徳会の菊池浩幸理事から、京都の鯉山町による鯉山タペストリーに関するシンポジウム開催の計画を聞かされた。このタペストリーは、アエネアス壁掛の姉妹品である。早速、(公財)鯉山保存会の北川和男理事長に連絡して、今年の祇園祭に参上して鯉山タペストリーを直に拝見し、更にこのシンポジウムに参加したいと申し出て、快諾を頂いた。鯉山は祇園祭の後祭りに出る山である。今年の後祭りが行われる7月24日の3日前、鯉山町にお邪魔して、山に祀られる宮殿(くうでん)に参拝し、左甚五郎作と伝わる大きな鯉を拝見して、懸装品として9分割されたタペストリーを間近に見せて頂いた。すぐ近くで拝見する鯉山タペストリーは、名品の迫力に満ちており、長く祭りに用いられてきた歴史の重みがひしひしと感じられた。
そして9月17日。東京麻布鳥居坂の国際文化会館で開催された「鯉山B.B.タペストリーシンポジウム」に勇躍出かけた。これは、日本ベルギー友好160周年記念として開催されたもので、北川和男実行委員長、アントワン・エヴラーベルギー大使、京都一区選出の勝目康衆議院議員の御挨拶で始まった。続いて、国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス副所長教授、京都藝大大学院美術研究科吉田雅子教授、鯉山保存会理事の三宅隆司理事がそれぞれ講演され、最後に北川実行委員長の司会で、3人の講演者によるパネルディスカッションが行われた。この講演で、クレインス教授が新説を述べられたのだが、その内容は、次のようなものだった。
まず、前提として、この連作タペストリーは、ホメロスの「イリアス」にその主要部分が叙述されているトロイア戦争の各場面を描いたものとされる。トロイア戦争は、ギリシャ神話の神々の女王ヘラ、知の女神アテナイ、美の女神アプロディーテの3女神の美の争いの判定が、トロイアに滅亡をもたらすと予言されたため牧童になっていたトロイア王子パリスに委ねられ、3女神は、それぞれ褒美でパリスを釣ろうとしたが、結局、彼がアプロディーテを選んだことに端を発する。アプロディーテが褒美としてパリスに与えた世界一の美女はギリシャのスパルタ王の妻ヘレンであったから、ギリシャ側は大激怒。スパルタ王の兄でミュケナイ王のアガメムノンを総大将に、アキレス腱にその名を残す勇将アキレウスなどが参加してトロイアに遠征した。戦いは、パリスの兄ヘクトールの奮戦もあって長期に及んだが、ギリシャ側の知将オデュッセウスの献策による木馬の戦術で、トロイアは陥落した。王族の一人アエネアスはトロイアから地中海に逃れて、カルタゴに到着、その女王ディドーに愛されるが、それを振り切ってイタリア方面に向って、そこで子孫を設け、その一人ロムルスがローマを建国する。この戦争の経過を描いたタペストリーが、16世紀頃にベルギーで作られ、伝来のルートは不明なるも、我が国に6枚伝わり、火災で焼失した芝増上寺の2枚と前田家に伝わる1枚の他の3枚は、分割されて、祇園祭をはじめとする京都、大津、長浜の祭りの山鉾の懸装品として使われてきている。
クレインス教授は、この前提を踏まえて、『これまで、鯉山タペストリーの絵は、「トロイア王と王妃がアキレウスに敗れて戦死したヘクトールの遺骸が返却されるよう太陽神アポロンにお祈りする図」と解釈されてきたが、ローマの詩人キケロの著述「占いのこと」の中に、この絵にピッタリの表現があり、絵は、トロイア戦争を呼び込んだパリスを王妃が妊娠したとき、松明が燃える夢を見て、それについて太陽神アポロンにお伺すると、神は、この子はやがてトロイア滅ぼすことになるから、育ててはならないと予言した場面と解するべきである。』という趣旨のことを述べられたのである。
絵では、王妃は妊娠中のようで、腹部に手を置いている。さらに、絵の中の人物やその姿勢、持ち物によって、それははっきりしているというのが教授の説くところだ。
前田家の一枚は、これまで、その名の通りにアエネアスがカルタゴの女王ディドーと会った場面とする説の他、パリスとヘレンの出会いの図ではないかとも言われており、その他の説も唱えられてきた。これに関して、クレインス教授は、絵の背景等からして「パリスとヘレン」とは考えにくく、名称通り「アエネアス」の図と考えるのが妥当とされた。また、これまで、この連作は全部で6枚とされてきたが、製作時にはもっと多く、10枚か12枚ほどあったのではないかとも推測された。さらに、欧州と我が国の記録を参考に、この連作はオランダ東インド会社の代表が、徳川家康に贈った可能性があると述べられた。
この新説は、これまで、本欄で説明してきた連作各場面の年代順を大きく変え、その典拠をホメロスの「イリアス」だけに限らず、キケロの「占いのこと」やヴェルギリウスの叙事詩「アエネアス物語」に広げて解釈するものであり、この連作を新しい目で見直すことを示唆するものであった。クレインス教授の説を聞いた私は「イリアス」の邦訳をひもといて、鯉山の絵が表現しているとされてきた部分を読んだところ、トロイア王がヘクトールの遺体返還を求めて祈る神様は、教授の指摘通り、アポロンではなく神々の王ゼウスであることが確認できたし、鯉山の絵に描かれた神様はどう見てもゼウスではなくてアポロンであり、これらは、クレインス説の妥当性を示唆しているように思えた。しかし、従来説も、研究の積み上げの結果得られたそれなりの論拠があるので、これから、更に学術上の研究を重ねることが求められる。とまれ、この連作に関する謎はとても深く、割り切って表現するのが極めて難しいことを痛感したのであった。(2026年10月18日記)
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