勝ち碁へのクリック

 コロナ禍は未だ続いているが、ワクチン接種が進行中である。これによって、我々の活動の元に戻る日が早くなることを祈るのみである。盤を挟み顔を近づけて対戦する囲碁将棋に関しては、プロ棋士達は、NHK杯のトーナメントで見られるように、マスクを付けた棋士が2枚のアクリル板を隔てて対戦したり、その他いろいろまん延防止の措置を講じて対局が行われているが、私のザル碁・ヘボ将棋の世界では、対面する対局の代わりに、パソコンによるオンライン対局で十分だ。昔は郵便碁という葉書で着手を交換する優雅で長日数を要する対局もあったようだが、今のテンポからすれば、もう難しいだろう。

 私の属する囲碁グループは、「呼びかけの碁」というオンライン対局プログラムを用いている。自宅に居ながら碁が打ててとても結構だが、問題は、この方式を採用してから負けがこんできたことだ。原因を考えた。クリックミスをするせいではないか。しかし、去年はクリックミスを二度もした一局が唯一の勝利局で、ノーミスの局は全て負けたから、何をか言わんやである。では、歳をとって棋力が衰えたせいか。それは確実に言えるが、もともと私は強くないし、それほど急に弱くなるものなのか。とつおいつ考えた挙句、私の場合、実際に碁盤の上に石を置くのと、パソコンで画像を見てクリックするのでは、慎重さに違いがあるのが主因のような気がしてきた。右手を碁笥に運び、石をつまんで盤上に置く動作をしかかると、その前にもう一度よく考えようという思いが脳内を走る。私は熟考派ではないし、たとえ熟考しても深いヨミなどはできないのだが、現実に石を持つとなると、私なりに一手一手が重いものになる。それに対して、パソコンのクリックは実に手軽に簡単にできる。相手が着手すると、条件反射的にマウス上の右手が動いてしまう。当然ながら、私が瞬間的に打つ手などはろくでもないことが多いから、それが悪手となって敗局への道をたどる。こういう次第だから、オンラインによる遠隔対局においても、慎重に打つよう心がけること、そのために、いつも手を置いているパソコンのマウスから手を離す方がよいのではないかという結論に達した。

 私の場合、パソコンのモニターから読み取って脳内に入る情報の量は、書籍や新聞の活字からのそれに比べて、かなり少ないように感じる。モニターの画面を見て頭に入れたことは、どうも頭の中に残りにくい。紙の上ならアンダーラインを引き書き込みもできるが、モニター上ではそうはいかない。実際はモニターでもいろいろ記憶補強の手段はあるようだが、それはなかなかやっかいだ。

 また、電子技術的に書き込まれた文書やそのオンライン交換は、もし、突如電気の供給が途絶えたり、邪魔が入ったり、装置が壊れたりして、回復不能になりはしないかという不安がつきまとう。紙に書かれたものは、そのインクや墨と紙が丈夫である限り、王羲之の「孔侍中帖」や藤原定家の筆写による「土佐日記」や足利尊氏、足利直義、夢窓疎石筆の「宝積経要品」などが前田育徳会の所蔵品として立派に現存しているように、長年月に耐えることが実証されている。リアルな記録はやはりすばらしい。もちろんその保存のためには、紙の劣化を防ぎ、虫食いを止めるなど懸命の努力を重ねなければならないのだが。

 しかし、ウイズ・コロナの現在、あるいはやがて来るアフター・コロナの時代には、パソコン駆使の遠隔会議による情報交換に基づき意思決定をして、行動することが多くなり、そこから更に新しい大きな飛躍が期待される。私はオンライン情報交換とクリックの技に慣れたいと切に思っている。(2021年6月14日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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