文の京の殿様サミット

 今月4日、文京区役所の企画により、『文の京(ふみのみやこ)歴史再発見~江戸から明治~「殿様サミット」』が催行された。江戸時代、今の文京区内に屋敷を構えていた大名家のうち4家の後裔の方々が招かれ、各大名家と文京区の関わりの紹介と、それぞれのお国許の市や県による観光PR(金沢市は山森健直東京事務所長が担当)が行われたあと、各家お4方によるパネル討論風の話し合いがもたれた。会場となった文京シビックセンター2階の小ホールは300余りの席数のところ、この企画に1500人程の応募があり、入れない人々は地下でパブリックビューイングによって進行を見守った。

 登壇されたのは、御三家のひとつ35万石水戸徳川家の徳川斉正氏、11万石備後福山藩阿部家の阿部正紘氏、52万石肥後熊本藩細川家の細川護煕氏嗣子護光氏、そして102万石の我が加賀藩前田家の前田利祐石川県人会名誉会長。コーディネーターは、文京区と関係の深い樺山紘一東大名誉教授であった。

 私にとって、前田家上屋敷跡との御縁は言わずもがなのこと、細川家屋敷跡の文京区高田老松町に所在する財団法人の学生寮和敬塾で学生時代の4年間を過ごしたこと、そのため何度も出入りした文京区役所、今の文京シビックセンターは水戸徳川家屋敷の跡にあること、東日本大震災の直後、白山の息子宅に仮寓していた際、阿部家屋敷の跡に建つ誠之小学校付近を何度も訪れたことなどから、懐かしい話題が楽しみな興味津々たる1時間半であった。

 まず、それぞれの自己紹介の後、家訓、墓所の維持、相互の交流、今後の大名家後裔のあり方についてユーモアを交えたコメントが開陳され、意見交換が行われたが、各家御当主達の一言一言は、ホール内外に一杯の聴衆を引きつけてやまなかった。

 家訓について、どの家もそのようなものはないというお答えが興味深かった。古い商家等は家訓を有するとされているが、大名家は違うようだ。それは、各大名家の最も重要な任務は、地域の統治であり、それには、家訓によって任務の遂行方法や生活態度を一律に示すよりも、局面局面に即して柔らかく対応することの方を大切にされたとも思われ、統治という営みには、広い視野と柔軟性が必要なことを改めて認識させられた。

 また、広大で各地にある墓所の管理の苦心や、縁組みが続いて親戚関係も多い各家相互の交流、そして世の進展に即応しつつ長く家を継承していくための努力についての率直な発言は、客席の大きな共感を呼んだ。

 江戸時代の大名は、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」などのテレビドラマや映画に頻繁に登場するし、歌舞伎や落語のよき題材にもなっている。歌舞伎は太平記時代に世界を定めるのが定法だが、実際は「仮名手本忠臣蔵」のように江戸期の大名や家臣が活躍する。落語では「井戸の茶碗」や「竹の水仙」の殿様は細川越中守である。当時赤門があったのは、前田家だけではないはずだが、落語における殿様の典型的な名前赤井御門守は、ついつい加賀藩のことと思ってしまう。現在の生活と文化の骨格は江戸時代に形成されたとするならば、その時代をリードした大名生活に思いを馳せつつ、伝統行事や祭事を時代に適合しうるように努めながら社会が要請する役割を適切に果たすべく尽力されている御当主達に感銘を受けて、土曜日の午後を楽しんだのであった。(2018年11月20日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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