横綱大の里誕生

 大関大の里関が、五月場所で14勝1敗の好成績で優勝して、2場所連続優勝を果たし、横綱に推挙された。まさに私どもの願ったことが叶えられ、県人としてこの上ない慶びである。場所中の13日目の5月23日に13戦全勝となって優勝が決定し、25日の千秋楽で賜杯を抱くと、26日には横綱審議会が満場一致で横綱推挙を決定、28日には七月場所の番付編成会議と理事会で横綱昇進が正式決定され、30日には明治神宮で横綱推挙状授与式が行われて、八角理事長から横綱推挙状が渡され、雲龍型で土俵入りが神前で奉納された。テレビに食い入るようにして、雲龍型の奉納土俵入りを見たが、師匠の元稀勢の里二所ノ関親方の指導の賜物か、誠にひきしまった立派な挙措であった。

 かくして誕生した石川県出身の横綱は、藩政期以来、3人目である。第6代横綱阿武松緑之助関と第54代横綱輪島大士関に第75代の新横綱大の里泰輝関が続いたのである。これまでの県出身の2横綱は、いずれも語られることの多いすばらしい横綱であった。

 阿武松は、今の能登町出身で、驚くほど大量の御飯を食べる人物として落語にもなっている。落語は、滑稽話だけではなく人情話もその大切な分野のひとつで、故郷の衆望を担って相撲部屋に入門した長吉は大飯喰らいのため師匠が困って、一文の銭を付けて故郷に戻されることになり、情けなさに板橋のあたりで入水しようとしたが、この世の別れと宿に泊って最後の大飯を食べているところを相撲好きの宿屋の主人に見られて、その食べっぷりが高く評価され、別の部屋に紹介されて出世を重ね、長州藩主お抱えの横綱になるという話である。先日、名人6代目三遊亭圓生の「阿武松」を改めて聴き、江戸時代の人の情けに思いをはせた。

 輪島関については、私より年若なので、その歩みは我々世代にも広く知られている。七尾市香島中学校に在学中、同じような力量の小松市丸内中学校の巨漢翫(いとう)正敏氏と石川県中学校相撲大会で対戦して結果を残した土俵が出世への跳躍台だったか。金沢高校から日大に進んで、黄金の左手で一代を築き、北の湖関とともに、輪湖時代を現出した名横綱である。輪島関は学生横綱から幕下付出しで速やかに横綱まで昇進されており、この経歴は大の里関と同じである。後に、関東七尾の会の席上で言葉を交わさせて頂いたが、早世されたのは誠に残念だ。また、翫氏は、私と同じ中学校の数年後の卒業生で、実家の僧職を嗣いで、後に参議院議員になられ、政府委員だった私と国会の委員会でやりとりしたこともあって、後年親しくお付き合いさせて頂いた。翫氏は、中学生輪島さんとの一番を良き思い出として楽しく語られていたが、この好漢も数年前に他界された。今頃は天国で輪島関と二人で、大の里関の横綱昇進を大喜びされていると思われる。

 このような先人の跡を受け、石川県出身の3人目の横綱として、これからの相撲界を牽引することが期待される大の里関であるが、怪我なく稽古に明け暮れる日々を重ね、名古屋で開催される七月場所では、堂々たる勝ち星を連ねて、大横綱への道を歩み出して頂きたいと念願している。

 それにしても、今年は、梅雨の最中というのに、連日、真夏日が続き、各地に猛暑日が出て、大変な暑さである。一昨日もあまりの暑さに、いつもは徒歩で行く距離をタクシーに乗って外気温度を訊いたら、35度とのことだった。現代は、昔よりいろいろな理由で夏の高温化が進んでいるのかもしれないが、現在のような冷房施設がなく、テレビなどで水分補給を呼び掛けて、健康維持に注意してくれる仕組みもなかった古い時代には、夏を越すというのは、年老いた人々にとっては大仕事であったと思われる。今に生きる我々県人会員は、相互に励ましあって、この夏をしっかり乗り切り、石川県と各市町の応援団としての役割を果たしていきたい。(2025年6月19日記)

石川県人 心の旅 by 石田寛人

石川県人会発行の月刊ニューズレター「石川県人会の絆」に2016年1月の創刊から連載中の記事をまとめたサイトです。

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