盆過ぎの日曜日、大阪中之島美術館で開催中の「日本美術の鉱脈展」を見た。文藝春秋の7月号で、辻惟雄・山下裕二両美術史大家による『新発見若冲と応挙の「合作」ミステリー』と題する対談を読んで感ずるところがあったからだ。この対談は、円山応挙と伊藤若冲が別々に描いた合作と考えられる二隻の屏風が新しく見つかったことを報じつつ、これを機会に我が国にまだ人知れず眠っている絵画と絵師の系譜を探る試みの展覧会が、「鉱脈展」という名の許に山下先生の監修で開催されていることをも紹介したものだった。
若冲と応挙には、格別の思いがある。若冲については、2016年の春、東京都美術館での生誕300年記念展覧会に、雨の中、長蛇の列をついて風邪をひきそうになりつつやっと入場したところ、最後「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅を見てその迫力に圧倒され、悪寒が吹き飛んだのが忘れられない。応挙については、小松の家の蔵にあった応挙作とされる富士山の屏風が三十年近く前に盗難に遭ってしまい、何とも大きな先祖不幸をしたという思いが、私の胆に深く刻み込まれている。そんな訳で、文春の対談を読んだら、すぐその展覧会を見たくなり、妻と義妹とその友人とともに、大阪中之島に急いだのである。
展覧会場に入ってすぐは、第一章「若冲ら奇想の画家たち」の展示で、まず、応挙の「梅鯉図屏風」と若冲の「竹鶏図屏風」が並んで立てられていた。新しく見つけ出された両屏風は、全く同じ大きさの同じ金箔の二折りに描かれている。実際、この両画家に同時に発注され、二人はそれぞれ相手を意識してて描いたことを実証する書面はないのだろうが、こうして並べて鑑賞すると、辻惟雄先生と山下裕二先生が、そのように論考されたのは、誠にその通りと頷くのみであった。
右に置かれた梅鯉図は、これぞ梅と膝を打つような見事な枝の下で、鯉が穏やかに悠々と游泳を楽しんでいることをわずかな水の描線で十二分に表現されているのに感嘆した。鯉は、二尾とも、絵の左を意識しているかのようである。
左の竹鶏図は、右の応挙の梅と鯉を受けとめて、数羽の鶏が、それぞれに存在を誇示するように、虫食いのある竹の葉の下で、大きく尾をなびかせている。特に雄鶏と雌鶏の尾は、強烈に大きく湾曲して右の応挙図の方に向かっている。
まさに呼吸を合わせて描かれたような両屏風であるが、私は、息を飲んで見詰めるばかりで、目が洗われたような気がしたのだった。
このほか、この展覧会では、全七章にわたって、我が国美術の深い鉱脈を探る展示が続いていて面白かったが、特に印象深かったのは「素朴絵と禅画」と題された第三章であった。鎌倉時代末からお寺や神社などの勧進の活動、すなわちファンドレージングのために用いる寺社の起源を説いた縁起絵巻が作られるようになるが、その中に、その縁起を語る教養人が、画業が専門ではないけれども、素朴な表現で巻物に絵を描くようになり、応仁の乱以降はその傾向が進んだとされている。この章の展示の冒頭は「かるかや」の絵巻であった。「かるかや(苅萱)」とは、出家した武士苅萱道心とその息子石童丸の物語で、高野山で修行する父を訪ねて行った石童丸に、修行上の制約から父であることを明かせず、子は父とわからないままその元で修行を重ね、最後に信濃の善光寺で同時刻に往生をとげたという説教節であり、人形浄瑠璃や歌舞伎にもなっている。ここで文書に添えて描かれた絵は、素朴とも稚拙とも表現しえようが、ほのぼのとした何かが私に迫ってくるのには驚いた。次に展示された白隠禅師による達磨図や観音図は、決して稚拙ではないが、素人描きではあろう。我が国では、古い時代から、このような素朴な絵をそれとして受け止め、大切なものと認識する伝統が形成されてきたということだった。
これらは、今年の5月に本欄で取り上げたフランスの画家ルソーの作品に通じるところがあると解説されている。その通りと思うが、ルソーの場合は、もとからヘタウマを狙ったものではなくて、懸命に対象に迫ろうとして子供のような心が自然に働き、あのような絵になったと思われるのに対して、白隠禅師達は、仏道の心、禅の境地を多くの人に伝えようとして、自分は絵の専門家ではないことを承知の上、このような絵を描くことに行き着かれたと思われる。洋の東西の相違はあるが、素直に物の本質に迫ろうとする心が、このような共通点を生み出したものと深く感じ入ったのだった。(2025年9月18日)
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