東京駅は丸の内口が正面である。今や3階建てに復元された赤レンガ造りの駅舎がまばゆく建っている丸の内口の光景は、まさに首都の玄関口にふさわしい。私は、金沢・小松に帰るべく北陸新幹線に乗車するため、あるいは非常勤ながら役員を勤める本田財団のオフィスに行くために、頻繁に東京駅を通るが、このところ丸の内口に出ることは少なくなり、八重洲口方面の行き来に終始している。
八重洲口は、丸の内口同様に、立派に整備され、前からある大丸デパートや新しい東京ミッドタウン八重洲をはじめ高層建築が建ち並んで、商業ビジネス地区として殷賑を極めている。石川県アンテナショップ八重洲いしかわテラスも八重洲口から東に延びる八重洲通りの好位置にあって人気を博している。
感慨深いのは、「八重洲」という地名である。今や、「八重洲」は、行政上の地名からしても東京駅の東側一帯のことであり、これに対して、西側は「丸の内」である。しかし、驚くことに、「八重洲」の地名は、もとは、江戸城の内堀に添った一帯、つまり今の東京駅の西側で、馬場先門から和田倉門のあたりだったようだ。この地名は、徳川家康がオランダ人の航海士ヤン・ヨーステンを気に入って屋敷を与えたので、それが「ヤエス」になったとされ、その屋敷地から付けられた。八重洲という地名は、かつて東京15区の時代は、東京駅西の麹町区に八重洲町という町があって、東京駅から外堀を隔てて東側にあった日本橋区と京橋区には八重洲の地名はなかったのだ。それが、外堀に八重洲町から延びる橋という意味で八重洲橋と言う名の橋が架けられ、丸の内方面にしか入口のなかった東京駅に八重洲口が開かれ、さらに、八重洲町一帯は丸の内と改称されて、駅の西には八重洲の名が無くなり、外堀に八重洲橋が架かっていたことや、東京駅に八重洲口があることから、東京駅の東側が八重洲だという思いが人々にあって、戦後、八重洲は行政上の地名になった。なお、八重洲口から東に延びる八重洲通りの北側の八重洲一丁目が元の日本橋区で、南側の八重洲二丁目が元の京橋区。本田財団が6階に仮住まいしているTOKYO YANMARビルは、その八重洲二丁目の先端ともいえる八重洲通りと外堀通りの交わるところに建っている。
前田利宜石川県人会名誉会長が社長をされているイノダコーヒは、東京駅に連なって立つ大丸デパートの8階にあるので、私も時折参上し、珈琲の味と香りを楽しんで、窓の外の八重洲に往来する人の流れを眺め、本田財団のオフィスの窓を遠望している。そんなわけで、地上、地下を問わず、私は八重洲口一帯をウロウロして、その活力に満ちた雰囲気にひたっているが、今も、大きな建造物の建設工事がドンドン進んでおり、この辺りの光景は、これからもっともっと変化するであろう。
さて、この16日の午後5時半、そんな八重洲の地下を、私は、本田財団で用務を済ませて、足ばやに歩いていた。と、前方に大きな人だかりが見えた。ピアノを弾く音がする。急いで近づいてみると、駅ピアノ演奏だった。女性がピアノを弾いており、多くの人が立ち止まって聴いている。駅ピアノと言えば、我が石川県人会のプラハ訪問の際、マサリク駅の駅ピアノを故高村秀雄さんの奥様が弾かれたことが胸中によみがえって、懐かしくなり、さらにピアノに近寄った。かたわらの小さな看板に、"Tokyo Station Piano"と書いてある。これは、東京ストリートピアノフェスティバルという催し物の一環で、大勢の希望者が次々にピアノを弾くイベントだった。ピアノの後方には10人足らずの男女が列をついて待っていて、演奏時間は5分程にして欲しいと注意書きが出ていた。私は男性3人、女性1人の演奏を聴いてその場を離れたが、八重洲口方面では実にいろいろな催しが行われる。
昨年末、TOKYO YANMARビルの地下の吹き抜けの床に、「歌舞伎十八番の内勧進帳」と名付けられた大きな色つき砂絵が広げられた。その絵は、富樫一人を描いた絵だった。富樫が「それなる強力、止まれとこそ」と義経の通行を遮った場面である。勧進帳は、能で言えばシテは弁慶であり、誰か一人を描くとすれば、弁慶であることが多いが、富樫は我が加賀の国の代表である。その富樫が、八重洲のビルの地下で、中啓を大きく振りかざしているのに感動して、私はその場から離れられなかった。(2026年2月20日記)
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