先日、浜松町での会合の帰途、大江戸線を麻布十番で下車した。浪花家総本店で鯛焼を買うためである。私は鯛焼が大好きである。子供の頃、田河水泡作の漫画「のらくろ」に鯛焼をやりとりする場面があり、鯛焼は当時の小松にはなかったので、何とか本物を食べたいと思った。やがて、その願いは、東京は西早稲田に住まった頃、グランド坂上の「一五屋」という夏は氷水、冬は鯛焼を売るお店で存分に叶えることができた。文献を調べると、東京の鯛焼御三家として、麻布十番の「浪花家総本店」、人形町の「柳屋」と四谷の「わかば」が挙げられていた。そこで、公務員退職後若干の時間的余裕ができた時、小さな調査を行った。この三店を回って鯛焼を数枚ずつ買って帰り、写真を撮り、寸法と重量を計測し、お茶とともにじっくり味わうことを試みたのである。御三家は、いずれも大きな店ではないが、独特の雰囲気を醸し出していて、多くの人を惹き付けている。それぞれの鯛焼は、それぞれに風趣と特徴があって楽しい。その違いを科学的に解明するため、知り合いの専門会社に自費で頼んで、食品分析を依頼することも考えた。しかし、思い返せば、そんなことは無粋の限りである。結局、「漢詩もどきのもの」を作り、文字を並べて、ささやかな調査を締めくくることにした。拙い漢語知識で表現すれば、浪花家の粋鯛、柳屋の勢鯛、わかばの耀鯛というところか。かなり後になって、このあたりのことをまとめて、日本経済新聞の夕刊一面のコラム「明日への話題」に、漢詩もどきとともに書いたところ、小冊子にしたらどうかというお勧めも頂いたが、友人からはおまえも忙しいと言いながら昔から暇な男だったんだと呆れられてしまった。
今は鯛焼店の数はずっと多くなり、鯛焼はすっかり身近なものになった。私はどの鯛焼屋のものも喜んで食べている。鯛焼の尻尾にアンコが入っているべきかどうか。かつて、小説家で演劇評論家の安藤鶴夫と映画監督の山本嘉次郎の間で論争があり、古今亭志ん生が仲裁に入って分けたとされているが、今は程度の差こそあれ、尻尾にもアンコはあることが多い。頭から食べるべきか、尻尾から食べるのがよいかという議論もあった。これらの論議は、いずれも鯛焼大好きな方々の鯛焼愛がほとばしったものと理解されよう。一尾ずつの焼型で焼く「一丁焼き」を「天然もの」、鉄板の上に並んだ型で何個も一度に焼く「鉄板焼き」を「養殖もの」と呼ぶ向きもあるが、私はいずれも好きである。童謡「泳げ!たいやきくん」で一世を風靡した鯛焼君は鉄板の上から逃げ出したのだった。
このところ、焼きたての鯛焼は、甘くてアツアツのスイーツとして外人観光客にも大人気だ。先日の浪花家でも、店に座って食べたかった。しかし、予定の関係もあり、持ち帰ることにしたが、地下鉄の中では、鯛焼のにおいが気になった。隣の人に気兼ねして、鯛焼の発する湯気とにおいの拡散を防ぐため、あまり空気が動かないように努めたが、地下鉄がやけに遅く感じられてならなかった。幸い、途中で立ち寄った息子の家で、嫁が気をきかせてジッパー付きのビニール袋に入れ直してくれたので、そこから自宅までは、隣席への気遣いから解放された。
鯛焼は、鮮度が重要ながら、冷凍もでき、輸送運搬にも気を使う。「鯛焼も魚のうちだ」というのが、私の日経コラムのオチだったが、先日の顛末でもそれを改めて確認したのだった。(2019年3月18日記)
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